【オスマン帝国艦隊の山越え】
歴史を変えるアイディアが出る時
皆さんはアイディアはどんな時に出るとお考えでしょうか?
どうしても解決したい問題について悩んでいる時。
偶然におきた何かを見て閃いた時。
技術の進歩に遭遇した時。
色々なケースがあるかと思いますが、歴史を大きく振り返ると人間の生死をかけた「戦争」という場でも、多くのアイディアは出ています。
今日は今から1,500年以上前にタイムスリップし、1453年の5月29日、オスマントルコ帝国のメフメト2世が難攻不落といわれていた要塞都市コンスタンティノープル(現イスタンブール)を陥落させた際の斬新なアイディアを紐解いてみたいと思います。
(参照)コンスタンティノープルの陥落 - Wikipedia
歴史上のコンスタンティノープル
コンスタンティノープルという城壁に囲まれた要塞都市は黒海の入口ポスポラス海峡に存在し、東ローマ帝国の首都、そして東西南北にわたる貿易の要所として栄えました。
しかし、なんといっても特筆すべきは城壁の高さと厚さと堅城さです。高さ17メートル、幅5メートルの高くて厚い内城壁を築き、更にその外側には高さ10メートル、幅3メートルの外城壁。その間に高さ40メートルの塔を建て、そして更に手前には水路まで引き、難攻不落といわれる名城でした。
しかも、この鉄壁の城壁の中にスッポリと都市を入れてしまったんですから、これは我々日本人には想像を超えた規格外な建物です。日本でいえば、東京湾に接する港区だけを城で囲んだ感じでしょうか?
1453年のコンスタンティノープル
当時東ローマ帝国の力は衰弱し、1453年にはコンスタンティノープル周辺の国土は対岸に小さく存在しているジェノバ人自治区を覗いて全てオスマン帝国(オスマントルコ帝国)に征服されてしまいました。
しかし、要塞都市であるコンスタンティノープルだけはその強靭な城壁と、ギリシア正教会として影響力、そして貿易の要所としての機能を持つことによって生き延びていました。オスマン帝国の海軍が決して強くなかったことも影響していたでしょう。
巨大な恐怖帝国を築いていたオスマン帝国も、コンスタンティノープルの城壁を攻めるリスクと教皇を配する港町の利用価値を考え、あえて友好関係を築いていました。
メフメト2世の誕生
しかし、オスマン帝国のスルタン・ムラードの急死に伴って、突如皇帝の地位についた若きメフメト2世は、周囲の反対をよそにコンスタンティノープル攻略を準備します。
メフメト2世は支配下に収めているキリスト教徒の国々からも出兵を促し、10万を超える大兵力でコンスタンティノープルを取り囲みました。対するコンスタンティノープルの守備兵は7,000人しかいません。国力の差は歴然としていました。
コンスタンティノープルの防衛戦
オスマン帝国は何度かの総攻撃をしかけましたが、コンスタンティノープルの城壁と守備兵の活躍はそれを退けました。
しかし、オスマン帝国は大量の兵力だけでなく、当時最先端の兵器だった巨大な大砲を配し、連日コンスタンティノープルの城壁に砲弾の雨を降らせます。
これにより、コンスタンティノープルの城壁にダメージを与えることに成功しましたが、それでも守備兵の懸命な修復と、強力な内壁の存在で、コンスタンティノープルは持ちこたえます。
ここでオスマン帝国の若き皇帝、メフメト2世は恐ろしいアイディアを思いつき、それを実行に移したのでした。
金閣湾に目をつけたメフメト2世
コンスタンティノープルの城壁は陸側に最も厚いものが3枚もあり、海側は海流の早い海岸からそそり立つ城壁に足のかけばもありません。しかし、城の北側にあるおだやかな金閣湾という小さな入り江に関しては城壁は1枚だけでした。
(参照)コンスタンティノープル防衛:金角湾封鎖作戦 | トルコ紀行 ~ イスタンブールの全て
ここに目をつけたメフメト2世は金閣湾を抑えて、城壁の薄い部分からの攻撃を考えます。しかし、金閣湾は完全中立を掲げる「ジェノバ人自治区」の力により、入口を封鎖されていて、オスマン帝国軍の軍艦が入ることが出来ません。
ここでメフメト2世は驚くべき作戦に出たのです。
戦艦の山越え
オスマン帝国の支配下にある他国の兵士達は、連日海から金閣湾に続く幅の広い道路整備の作業にかり出されていました。封鎖されている金閣湾入口を避けてボスフォロス海峡と金閣湾を通す道を整備していたのです。
その作業員でもあるセルビア国兵士は、ある日不思議な作業をすることになります。なんと突然、道路に木材を二列に並べて敷き詰めたのです(車輪を付けたという説もあり)。
そして全て終わったところでメフメト2世が直々に視察に現れ、作業を確認してさっさと帰って行きました。その作業に関わった多くの兵士は大砲でも移動するのだろうと考えていたようです。
その翌日、セルビア国兵士達は早朝から衝撃的な光景を目にします。
敷き詰めた木材に動物の油がたっぷりと塗られ、滑りを良くし、重いものを運ぶ準備ができていたのです。
そしてその木材の上には海中から引き上げられた戦艦が載っていました。その数は1隻ではありません。何十隻もの戦艦が丘の上に引き上げられました。
牛の群れが戦艦を両脇前方から引っ張り、船腹と船尾を人間が押し、沢山の船が海抜60メートルにある山の頂上に向かって動き出したのです。
海から山に向かって風が吹いていたので、戦艦は帆を張り、海の上を進むように山頂に向かったといわれています。
アイディア戦略の成果
戦艦を山頂に運び始めた日の正午、作戦は決行されました。
60隻近くの戦艦が、滑り台からおりてくる玩具のように次々と山を下り、そのまま金閣湾に侵入したのです。
(参照)奈津子の徒然雑記帳 人類の軌跡その346:オスマン・トルコ帝国③
侵入した船は防柵を作り、すぐに戦闘態勢を整えます。全ての戦艦が金閣湾侵入に要した時間は、防衛側の兵士にしてみれば一瞬の出来事でした。
これにより、コンスタンティノープルの守備隊は一番防壁が薄いと言われている金閣湾側の守備にも少ない人員をさかなくてはなりませんでした。この守備側に与える精神的ダメージは計り知れないものでした。
コンスタンティノープルの陥落
その後、メフメト2世は陸上で城壁が一番弱いと言われていた渓谷近くの城門に3回に分けて総攻撃を行ないます。
第1波はオスマン帝国に従っている外国人部隊の大群が突撃し、城を崩せないまでも守備兵を疲れさせることに成功します。彼らの後ろにはオスマン帝国軍兵士が立ち、戦闘から逃げ帰る味方の兵士達を殺しました。
第2波はオスマン帝国の正規軍。しかし、白い衣装に緑の帯、そして白い帽子をまとったオスマン帝国の正規軍が突撃を仕掛けている間もオスマン帝国の大砲は火を噴き続け、敵味方もろとも蹴散らしたのです。
第3波はオスマン帝国の精鋭部隊。その数1万5千。彼らが城壁に開いた穴に突入しました。
そして落城
5時間を超える戦闘の後、コンスタンティノープルは陥落します。
オスマン帝国のメフメト2世は兵士達に「3日間の略奪の自由」を約束していたので、兵士達は我先にと城内に突入しました。
その後
その後、メフメト2世はコンスタンティノープルをイスタンブールと改名し、ここをオスマン帝国の本拠地として地中海制覇を目指したのでした。
いかがでしたでしょうか?
1,500年以上前に行なわれた戦争で発想された「船の山越え」のアイディア。これによりメフメト2世は相手の少ない戦力を分散させて、1,000年以上堅守していた城の攻略に成功しました。
大きな権力を持った指導者の元で斬新なアイディアを実行に移した時、歴史は変わるのです。