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【インスタントラーメン】は日本のイノベーション

世界的に有名な日本のインスタントラーメン

 

みなさんはインスタントラーメンは好きですか?

 

海外、特にアジアの国々へ出かけると、日本のインスタントラーメンはちょっとした料亭から庶民の屋台まで幅広く親しまれています。現地で市民権を得ているのを実感します。

 

さて、アジアでラーメンと言えばインスタントラーメンを連想するとまで言われているこの商品。実は日本発祥の商品だという事はご存知でしたか?そしてラーメンに関わる多くの製品が日本企業によるイノベーションの連続で産まれてきた事実をご存知でしたでしょうか?今日はその国民食イノベーションを紐解いてみましょう。

 

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(参照)錦織圭、日清食品ホールディングスと所属契約を締結:男子テニス:テニスニュース: テニスナビ - Tennis Navi

 

日本におけるラーメンの登場

日本で一番最初にラーメンを作ったのは、なんとあの水戸黄門様だと言われています。本当のラーメンというよりは、今のラーメンの原型ですね。

日乗上人日記によると、1697年6月16日、光圀は朱舜水の伝授した麺を自ら作って家臣に振舞っています。(中略)なお、当時のラーメンは、れんこんの澱粉から作られた「藕粉(おうふえん)」というものが使われました。 これは、古来、唐の時代から麺を打つ時のつなぎとして使われたきたもので、日本そばでいうところの小麦粉に該当するものです。

(参照)日本で初めてラーメンを食べたのは誰? - 西山製麺株式会社

 

そして水戸黄門より約213年後、現在日本で食べられているラーメンの原型が浅草の「来々軒」で誕生しました。中国で食べられていた麺料理を参考にして、小麦粉に「かん水」を混ぜる事によって日本人好みの麺料理にアレンジしたんですね。黄色い麺が特徴です。これは小さなイノベーションと言っても良いかもしれません。

明治43年(1910年)、東京浅草に初めて日本人経営者尾崎貫一が横浜中華街から招いた中国人料理人12名を雇って日本人向けの中華料理店「来々軒」を開店し、大人気となった。その主力メニューは、当時は南京そば・支那そばなどと呼ばれたラーメンだった。ラーメン評論家の大崎裕史はこの年を「ラーメン元年」と命名している。

(参照)ラーメン - Wikipedia

 

ちなみに現在、「かん水」は有効成分の炭酸ナトリウムなどから工業的に製造していますが、元々は自然界に存在する本当の水でした。意外と「かん水」が何であるかは知られていませんね。

鹹水(かんすい)は、塩化ナトリウムなどの塩分を含んだ水である。代表的な鹹水は海水であり、海水との境界に存在する汽水も鹹水に含まれる。また、過去に海水が閉じ込められてできた化石水、岩塩地帯の塩分を含んだ水など、陸水にも鹹水が存在する。対義語は淡水。

(参照)鹹水 - Wikipedia

 

その後、大2次世界大戦を経て、ラーメンが戦後の日本復興を支える象徴的な存在になっていったようです。焼け野原となってしまった東京で闇市のラーメンを啜る庶民…現代のラーメンブームとはちょっと違いますが、多くの人に支援されたようです。

戦後十余年。ようやく人々が家に落ち着き、貧しいながらも毎日の生活を送り出した頃。闇市の屋台では、ラーメンが爆発的な人気を誇り、特に人気の店には行列ができていた。

(参照)インスタントラーメン大研究 半世紀に渡る進化の歴史と次の商品 日経トレンディネット

 

このラーメンを家庭で作れないか? 

日本の起業家精神をもった人たちが次々とチャレンジしていきました。

 

インスタントラーメン作りを目指す人たち

 

インスタントラーメンを日本で初めて作ったのは日清食品の創業者・安藤百幅さんだと言われています。安藤さんはどうしてインスタントラーメンを作ろうと思ったのでしょうか?

1957年、安藤が理事長を務めていた信用組合が破綻しました。安藤はすべての財産を失い、残ったのは大阪府池田市の借家だけでした。しかし、安藤は「失ったのは財産だけ。その分、経験が血や肉となって身についた」と考え、自らを奮い立たせたのです。そして、闇市のラーメン屋台に並んだ人々の姿と、日本人が麺類好きであることを思い出し、"お湯があれば家庭ですぐ食べられるラーメン" を作ろうと決意。無一文の生活から這い上がるため、長い間あたためてきたアイデアの実現へ向けて、第一歩を踏み出しました。

(参照)安藤百福クロニクル | 日清食品グループ

 

そして試行錯誤していた安藤が奥さんの行動から、1つのアイディアを発見します。 

安藤は再起をかけて自邸の裏庭に建てた小屋でインスタントラーメンの研究を始める。即席性と保存性の確保、大量生産する技術を手に入れるため、失敗をくりかえすが、ある時、仁子夫人が天ぷらを揚げているのを見て、麺を油で揚げて乾燥させる「油熱乾燥法」を発明する。1年間かけて開発に成功した安藤は、1958年(昭和33年)8月25日に世界に先駆けてチキンラーメンを発売した。

(参照)安藤百福 - Wikipedia

 

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(参照)安藤百福クロニクル | 日清食品グループ

 

インスタントラーメンの仕組みは以下のようです。

麺を油で揚げてみると、麺の水分が高温の油ではじき出されました。ほぼ完全に乾燥した状態となった麺は、半年間置いても変質したり腐敗したりしない保存性を獲得。加えて簡便性についての問題も、この製法で解決することがわかりました。注いだお湯が水分の抜けた穴から吸収されて麺全体に浸透し、元のやわらかい状態に戻ったのです。

(参考)安藤百福クロニクル | 日清食品グループ

 

麺を油で揚げる事によって、乾燥麺にする技術を閃いたんですね!

これは正にビッグアイディアといえるのではないでしょうか? 

 

裁判で争われたインスタントラーメン

 

先ほども書いた通り、インスタントラーメンの生みの親は安藤百幅さんという事になっていますが、 実はこの話には多少含みがあります。安藤百幅さんが「チキンラーメン」を発売する以前に3つの業者がインスタントラーメンの開発に成功して販売していたという記録が残っているのです。

また、チキンラーメンが発売される数カ月前には、「鶏糸麺」(大和通商)、「長寿麺」(東明商行)という、お湯を注ぐだけで食べられるラーメンが売り出されていた。58年末から59年にかけ各社とも特許を出願し、即席ラーメンの戦いは法廷に持ち込まれることになる。

(参照)熾烈な争いが生んだ 世界に冠たるインスタントラーメン|食の安全|JBpress

 

しかし、法廷での戦いはチキンラーメンの圧勝でした。同時に商業的成功をも収めたチキンラーメンは、名実共にインスタントラーメンの元祖と認知されます。

 

しかし、1962年それまでの常識を打ち破る、スープを別袋に入れるインスタントラーメンが登場しました。それまでのインスタントラーメンは麺自体に味が付いていたんですね。

 

1962(昭和37)年4月、明星食品は「支那筍入り明星ラーメン」の発売から、そしてほぼ同時期、東洋水産は「マルちゃんハイラーメン」から、スープ別添えタイプへの全面的な切り替えをおこないます。スープ別添えタイプは、発売と同時に爆発的な売れ行きをみせました。味付けタイプにくらべて手間がかかるものの、めんやスープに味わいを深めることができました。また、ほかの具材を加えることも可能になったので、とりわけ都市部の主婦たちに好感を得ることができたのです。

(参照)日本即席食品工業協会 即席麺家頁 インスタントラーメンポータルページ

 

このような多くの会社がインスタントラーメン業界に進出し、インスタントラーメンは更に市民権を得ていったようです。

 

 

再び起こった即席麺イノベーション

 

そしてさらに時は過ぎ1971年、安藤さんによって再びラーメンのイノベーションがおこります。カップラーメンの誕生です。

 

欧米に即席ラーメンのセールスに行った際、ラーメン用のどんぶりが無かったため、紙コップにチキンラーメンを割り入れて湯を注ぎフォークで試食する姿からの発想だったとされている。カップヌードルが、通常の袋麺(約90〜100g)よりも麺の容量が少ない(麺重量60〜70g)のはその名残りである。

(参照)カップ麺 - Wikipedia

 

その商品が如何に斬新だったかは、以下のエピソードを読んで頂ければわかるでしょう。

セールスマンがアメリカに売り込もうとしてトランクいっぱいにカップヌードルを詰めていったら向こうの空港で爆弾と間違えられたそうです。その場で作って食べさせたら釈放されたというエピソードもあります

(参照)世界初のカップ麺は何ですか?ずっと「カップヌードル」だ... - Yahoo!知恵袋

 

その後、カップ焼きそば・生麺タイプなどのヒット商品の開発も続き、即席麺市場は日本人のイノベーションで拡大し続けました。日本人のラーメンに対する情熱は素晴らしいですね。

 

 最後に・・・

 

ここまでお読み頂き、ありがとうございます。長々とインスタントラーメンにまつわるお話をさせていただきましたが、最後に1つとても面白いアイディアを紹介させて頂きます。

 

一番最初にインスタントラーメンを作ったと言われている4つ企業の最後の1つ、松田産業有限会社のエピソードです。松田産業が発売した「味付中華めん」は、全く売れませんでしたが、素晴らしい出会い、そしてチャンスを逃さなかったのです。

 

1950年代当時、当社では即席めんを天日干しで製造していました。 そのときに麺のかけらがこぼれ落ちるのを見た創業者(故・松田由雄)は「もったいない」と思い、集めた麺のかけらに味付けをして、おやつとして従業員に配っていました。 そのおやつが評判となり、従業員や話を聞いた近所の方々が次から次へとその麺のかけらを欲しがるようになると、製造中にこぼれた分だけでは足りなくなりました。

 

「こんなに人気があるのなら、いっそのこと商品として売ってみよう!」

 

と考えたのが商品誕生のきっかけです。 偶然から生まれたアイディアですが、お湯を入れて食べておいしい麺と、そのまま食べておいしい麺とは別物です。 最適な味や食感を実現するため、材料の配合、麺の太さ・長さ、味のつけ方などに試行錯誤を繰り返して商品が完成し、1959年に発売となりました。

(参照)ベビースターのご紹介|おたのしみ&CM情報|おやつカンパニー(-^〇^-)/

 

これがベビースターラーメンの元祖でした。

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どうでしたでしょうか?

 

日本人が起こした様々なイノベーション。感じて頂けたでしょうか?

 

現在、イマイチ元気がない日本ですが、これらの創業者に負けないようなイノベーションがおこる事を是非期待したいと思います。