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【一国一城令】は日本のアイディア政策

教科書でしか知られていない一国一城令

 

徳川家康は1603年に江戸幕府を開き、260年続く超長期政権を樹立しました。この間、様々な政策を行ないましたが、今日は外様大名反乱を防いだ斬新なアイディア政策、一国一城令」について掘り下げて考えてみましょう。

 

一国一城令(いっこくいちじょうれい)は慶長20年閏6月13日(1615年8月7日)に江戸幕府が制定した法令である。土井利勝、安藤重信、酒井忠世の連判の元、徳川秀忠が発令したが、法令の立案者は大御所徳川家康であった。その内容は、一国(この場合の「国」は令制国でもあり、大名の領国(後の藩)のことでもある)に大名が居住あるいは政庁とする一つの城郭を残してその他の城はすべて廃城にするというものである。

(参照)一国一城令 - Wikipedia

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(参照)一国一城令 - Wikipedia 

 

戦国時代~江戸時代の戦争とは?

 

城単位だと思われがちな当時の戦争ですが、城というのは領地支配の象徴的な存在に過ぎず、当然ながら相手の大名(玉)をとった方が戦争の最終的な勝利者となります。

 

つまり、どんなに城を落とされようと、戦に負けようと、大名が健在であるかぎり国は存続する事になります。

 

仮に大名が討ち死にしてしまったとしても、その大名に世継ぎがいれば代替わりして国は存続できます。そういうこともあり、もし大名に世継ぎがいなければ、養子をもらってでも後継者を育てる必要があります。そうしないと国自体が滅んでしまうからです。ここがこの時代の戦争の大きなポイントでした。

 

江戸幕府で想定される反乱とは?

 

今度は江戸幕府で想定された反乱について考えてみましょう。

 

反乱は江戸幕府に対して有力大名が単独で戦争を仕掛ける事でなく、武装蜂起した外様大名とのセットである事が予想されます。

 

複数外様大名が各地で武装蜂起をし、幕府の軍隊が鎮圧に向かったところで背後から別の外様大名が江戸(もしくは譜代大名の領地)を制圧する。又は徳川家の世継ぎを拘束する。これが反乱軍のストーリーとなるでしょう。

 

徳川幕府が願う事

よって、徳川幕府としては、武装蜂起した地方大名を速やかに鎮圧する必要がありました。また、反乱を起こしにくいという空気をつくる必要がありました。

 

反乱軍の鎮圧に時間をかけることが一番のリスクだと考えていたのです。

 

徳川家康が考えた対策

そこで徳川家康は考えました。そして、凄いアイディアを思いついたのです。

 

1つの国には1つの城だけ残して、残りの城は壊してしまえばいい!

これが「一国一城令」です。

 

何故この「一国一城令」が凄いアイディアなのか???軍事的に考えてみましょう。

 

もし反乱が起こったら・・・

 

もし幕府に反抗的な地方大名が武装蜂起したら、当然幕府軍は鎮圧に向かいます。力の差は歴然としていますから、すぐに相手の城を包囲する事が出来るでしょう。

 

しかし・・・もし、その城から武装蜂起した大名が抜け出して、他の城に移動できたらどうでしょう?

 

幕府軍は移動して、再び敵が逃げ延びた他の城を包囲しなければならないでしょう。

 

また、他の城に世継ぎが隠れていたらどうでしょうか?

 

当然ながら、そちらの城も攻略しなくてはいけないでしょう。

 

反乱軍は長期化を狙う

そう考えると、トカゲの尻尾切りのように、反乱軍は首謀者(地方大名)の血筋が途絶えるまで反乱を続け、長期化に持ち込む事ができます。

 

その間に空いている江戸を狙われる事もあるかもしれませんし、戦いが長期化する事によって幕府の威信が落ち、外様大名に隙を与えてしまう事になりかねません。

 

徳川家康が考えた(と思われる)アイディア

そこで冒頭のアイディアに戻ります。

 

1国1城にする事で、反乱軍を(1回の包囲で)速やかに鎮圧する事ができ、反乱軍を根絶やしにできる。

 

これにより、反乱軍に反乱を起こさせない空気を作る事に成功したのです。実際に外様大名が武装蜂起したとしても、1回の戦いで一族が滅ぼされてしまうので、そう簡単には反旗を翻すことはできません。このアイディアが徳川幕府260年に大きく影響を与えたことは間違いありません。

 

いかがでしょう?

徳川家康のアイディアは、かなり考え込まれたものだと思いませんか?