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日露戦争を勝利に導いた画期的なアイディア【降りて戦う騎兵隊】

あまり知られていない日本の軍隊

 

みなさんは昔、日本軍に騎兵があった事をご存知ですか?

 

時は日露戦争です。

1904年(明治37年)2月8日 - 1905年(明治38年)9月5日)は、大日本帝国ロシア帝国との間で朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部と、日本海を主戦場として発生した戦争である。

(参照)日露戦争 - Wikipedia

 

当時から絶対的な権力を持つ大国、ロシア帝国に対し、日本(大日本帝国)はまだ日本維新を終えたばかり。そんな薩長人事の色合いが強く残る日本軍がロシア帝国に対し、下馬評を覆し、まさかの歴史的勝利を上げた戦争です。

 

その日露戦争ではいくつもの有名なエピソードが残されていますが、アイディアという面では秋山好古が率いた騎兵隊、「秋山師隊」の存在が有名です。

 

日本を勝利に導いた騎兵隊「秋山師隊」のアイディアとは、いったいどんなアイディアだったのでしょうか?歴史を紐解いてみたいと思います。

 

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騎兵隊とは?

そもそも騎兵とは何でしょう?

騎兵は相対的に高い機動力・攻撃力を誇り、作戦の幅を広げ、偵察、伝令、警戒など後方支援でも活躍した。また、軽騎兵・重騎兵と分類されることもあり、前者は機動力を、後者は攻撃力及び防御力を重視している。

(参照) 騎兵 - Wikipedia

当時の騎兵は、その機動力を活かして敵の背後に回り込んでの奇襲。補給路の遮断、策的などが主な任務でした。また、退却中の相手を迎撃する任務でも莫大な戦果を残しましたし、ナポレオン等によっては中央からの電撃的攻撃も担当するなど、軍隊では花形の存在でした。

 

そして、当時のロシアは世界最強の「コサック騎兵」を率いていました。

ロシアは大陸軍国でしたから、日本は海戦では引き分けくらいにはなる可能性は予想されていましたが、陸戦の方は全く勝ち目がないと思われていました。ナポレオンを追い返し、モルトケをして戦争回避を余儀なくさせる程の精強さを誇ったコサック騎兵の攻撃にあっては、日本はひとたまりもないと思われていたんでしょう。

(参照)麻生太郎オフィシャルサイト

この世界最強の騎兵隊に対して正面からぶつかり、コサック騎兵の封じ込めを命じられたのが秋山師隊でした。

 

騎兵隊を使いこなせない日本帝国軍

当時の日本には騎兵隊がなく、欧米の例にならって見よう見まねで騎兵隊を育成をしました。しかし、基本的に馬の大きさが小さく、徳川幕府鎖国政策が続いていた日本では欧米に対抗できる騎兵の育成は困難でした。

 

しかも日本軍の首脳は騎兵の使い方を知りませんでした。高速移動ができる騎兵で独立自由軍のような部隊を作らず、通常の部隊に編入し、相手の騎兵を抑え込む役割を与えました。騎兵を防御に使うという素人の発想でした。

 

騎兵を使うためにはナポレオンのような優秀な軍の最高指揮官が必要だったのです。

 

秋山好古が考えついたアイディア

世界最強のコサック騎兵を相手にする事になった秋山好古は、考えに考え抜いた結果、騎兵の常識を打ち破る画期的なアイディアを出しました。

軍馬の能力に劣る日本騎兵が戦場で生き残るには、騎兵以外の兵科との連携が欠かせないと考えた秋山少将は、騎兵部隊に歩兵、砲兵、工兵などを随伴させる、戦闘集団を編成することを考案した。これによって、秋山少将を旅団長とする、騎兵第1旅団を基幹として編成されたのが秋山支隊である。

(参照)秋山支隊 - Wikipedia

 

つまり、本来騎兵は騎兵だけで編成される特殊部隊ですが、使い勝手が良いように騎兵の弱点である防御力の弱さを随伴させる歩兵に任せたのです。そして、当時は最新式だった機関銃も騎兵に持たせました。

いわば逆転の発想であった。騎馬での戦いでは、日本人がコサックに勝てるわけがない。だから、コサック兵が現われたらただちに馬から降りて、銃で馬ごと薙(な)ぎ倒してしまおうと彼は考えたのである。

 

これは騎兵の存在理由を根本から覆す発想である。「日本騎兵の生みの親」と言われる秋山将軍のようなエキスパートが、まるで自己否定のようなアイデアを思いつくというのは、普通はできないことである。一種の天才であったと言わざるをえない。

 

さらに秋山将軍は、当時ヨーロッパで発明されたばかりで、「悪魔的兵器」と言われながらもその威力が戦場では未知数であった「機関銃」を採用した。黒溝台(こくこうだい)における会戦で、日本騎兵の機関銃の前にコサック騎兵は次々と倒され、なす術もなかった。

(参照)世界最強のコサック騎兵を封じ込めた秋山好古(よしふる)の画期的な戦術――渡部昇一教授 - 電脳筆写 『 心 超 臨 界 』

 

最終的に日本の騎兵はどのように戦ったか?

小説「坂の上の雲」では秋山好古の指示の元、いくつかの小規模な騎兵隊がロシア軍の後方に回り込み、騎兵隊らしく激しく陽動作戦を行った様子が詳しく紹介されています。これがボディーブローのようにロシア帝国軍クロパトキン総司令を精神的に苦しめます。

 

そして日露戦争最後のクライマックス「奉天会戦」では、騎兵は戦闘が始まる前から馬を降り、要塞を作って戦ったのです。

秋山少将は(略)最も危険と思われる沈旦堡の地に信頼する豊辺大佐指揮の主力を置き、その他三カ所にも陣地を構築、拠点防衛に徹します。

 

これは騎兵を率いる指揮官としては異例と思える判断で、機動力を重視する騎兵の立場から見れば、主力をいつでも飛び出せるよう中央に置き、敵の攻撃があればその最も強い部分に対し即座に攻撃に出る「機動防御」を考えるのが自然と思われるところ、その「脚」を捨てて塹壕陣地に籠もるという一見消極策に出ました。

 

しかしこれは秋山少将の深謀遠慮で、こんな状況下で敵・ロシアが積極攻勢をかけて来たならば、わずか数千の騎兵では防ぎ切れる訳がなく、しっかりした陣地に機関銃を始めとする火器を備え、敵を引きつけて妨害し時間を稼ぎ、満州軍からの増援を待とうとしたのでした。

  

そのため、自らが率いる部隊右翼(最も友軍に近い)にはわずかな手勢を置いて、直ぐに本営へ使いを出せるよう騎馬伝令を多数待機させていました。

(参照)ミリオタでなくても軍事がわかる講座 - 秋山好古と黒溝台

 

結果的にこの戦いで秋山師隊はロシア帝国軍の猛攻を凌ぎきり、クロパトキン総司令の迷走を呼び、ロシア軍を退却させることに成功しました。

 

伝統が無かった騎兵を育て、柔軟に使いこなし、日本の勝利に大きく貢献した秋山好古。昔の日本人はアイディア溢れる人種だったことがわかります。官僚的な体制で行き詰まっている現在の日本にこそ、彼のような人が必要な人かもしれません。

 

 

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